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2012年10月 6日 (土)

大滝秀治さんについて

大滝 秀治(おおたき ひでじ)

Otakihideji2

【経歴】wikiより一部抜粋

1925年(大正14年)6月6日生まれ。日本の俳優・ナレーター。本名同じ。血液型O型。
東京都文京区出身。生まれは母の実家・新潟県柏崎市。

1943年(昭和18年)に旧制私立駒込中学校(駒込高等学校)を卒業して、三田の電話局に勤務。1945年(昭和20年)に通信兵として召集される。戦後は大手町の電話局で、進駐軍を担当した。

帝国劇場で研究生募集のチラシを見たのがきっかけとなり、1948年(昭和23年)に東京民衆芸術劇場附属俳優養成所に1期生で入所後、1949年(昭和24年)に『風の吹く一幕』で初舞台を踏む。

しかし劇団民藝の創設者である宇野重吉に甲高く、かすれた独特の声を指して「おまえの声は壊れたハーモニカのようだから、演劇には向かないと思う」と評され、演出部へ移った。

1950年(昭和25年)の民藝創設に参加し、旗揚げ公演のチェーホフの『かもめ』に出演する。
1952年(昭和27年)には『冒した者』の代役に起用されたことがきっかけで俳優に転じ正式に劇団員となった。長年裏方ばかりの不遇時代が続くが、1970年(昭和45年)の舞台『審判』の演技で紀伊國屋演劇賞を受賞。

以来、民藝の看板俳優のひとりとして数多くの舞台に出演。2005年(平成17年)には『巨匠』『浅草物語』の演技で読売演劇大賞及び最優秀男優賞を、2009年(平成21年)には『らくだ』の演技で文化庁芸術祭(演劇部門・関東参加公演の部)大賞を受賞している。

2011年(平成23年)には多年に亘る演劇活動に対する功績を評価され、文化功労者に推挙された。
映画デビューは1955年(昭和30年)の『ここに泉あり 』。1976年(昭和51年)には『不毛地帯 』でブルーリボン賞の助演男優賞、『あにいもうと』でブルーリボン賞の助演男優賞、キネマ旬報賞の助演男優賞、第1回報知映画賞の助演男優賞を受賞した。市川崑や伊丹十三の作品では常連的存在。

当初は地味な存在で残忍な悪役なども多かったが、1970年代半ばに日本映画に大作ブームが訪れたころから、腹芸や貫禄で見せる脇役で引っ張りだことなる。1977~1979年の3年間では、一本立て全国公開された大作の実に八割近くに大滝が出演している。
テレビドラマでも現代劇・時代劇で悪役から、刑事ドラマ『特捜最前線 』での船村一平刑事役で1977年より8年間レギュラー出演など、幅広く活躍。同ドラマは代表作の一つとなった。

主演作には1975年(昭和50年)から1981年(昭和56年)にかけて地方の巡査を演じた『うちのホンカン』があり、第1作は第23回日本民間放送連盟賞最優秀賞を受賞。飄々としつつも、時には激昂する独特の芸風が人気を集めた。
2002年(平成14年)から俳優の岸部一徳と共演している大日本除虫菊(金鳥)のCMでは、迫真かつユーモラスな演技を見せ、このCMは2004年(平成16年)に東京コピーライターズクラブ賞のグランプリを受賞した。また、やずやのCMの中では宇野に自らの声を「壊れたハーモニカ」と評された先述のエピソードを吐露している。大滝自身も自分は声も顔も悪く、若い頃より老け役を演じることが多かったと振り返っており、様々な老人役を演じた。
2011年(平成23年)6月から7月にかけて行われた舞台『帰還』が最後の舞台出演となる。2012年(平成24年)春に体調を崩し、舞台『うしろ姿のしぐれてゆくか』への出演を取りやめた。

同年10月2日午後3時17分、肺扁平上皮癌のため東京都内の自宅で死去。享年87。


※余談ですが、最後に手に取ったのは赤塚不二夫さんの「 これでいいのだ 」 。今までの人生を振り返られ、思われて、読まれたのだと思います。

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